カクイの歴史
当社は、私の祖父が当時の三条の大手問屋の山弥金物(有)に7年勤務してからカクイ外山栄助商店として明治44年に独立開業しました。
二代目は栄一(明治39年生まれ)で、19歳で最初の出張をしたと聞いています。(栄一は後に襲名して二代栄助になります)
現在の社名の外栄金物株式会社は、昭和24年12月に法人化の折に改称したものです。
次の一文は、二代栄助が生前に書いたもので、戦前に満州へ出張した時のことを書いています。一部分は、直接話を聞いたこともありますが、当時の満州の状況と父・・・、あるいは三条の金物問屋がお得意を拡張するための行動力を示す珍しい文章ですのでご紹介します。
三条金物ニュース昭和53年3月15日号・4月15日号より
「満州出張取引」 外山 栄助
私の話は時代遅れの昔のことばかりで読者から「現代に通用しない大昔のこと」と笑われるかも知れない。然し三条金物界の歴史の中にこんな一頁があったのかと知っていただければ本望である。
むしろそれが我々生き残りのものに課せられた義務ではなかろうか・・そんな願いで筆を採ってみる。
私が若い時代を回顧するとき、父の開業出発当時の苦労話を思い出すが、父が折にふれポツポツ話す耳から入った記憶しか残っていない。
幾多の物語リを秘めた貴重なものが多かったであろうが、自己の生命と共に消え去り、惜しい哉詳細な記録は何にもない。矢張り書いたものを後世に残して置いて貰いたかったのである。
今から四十余年前のことである。
日支事変勃発で間もなく第一回の召集令状で応召、新発田留守部隊に次々に召集された現役兵補充兵の教育係として一年ニケ月間勤務、召集解除されて帰宅したとき、ヤレヤレ命拾いをしたという安堵感と、一年余の空白で営業の面でほ遊んでいたと同じの大損をした 思いが、急速に私を対満出張取引へと駆り立て、その引金となった。
難関は語学である。支那語のイの字も知らない私はラジオの支那語講座のテキストを買って毎日渡満準備の傍、その時間になると勉強を始めたのであるが、なかなか語学音痴の私には憶え切れない。こんな泥縄式では駄目だ、当ってくだけろ、どうにかなるだろう、言葉は現地で実際の体験で憶えよ。
行こうと意を決し、兎に角出発することにした。(渡満後テキスト勉強は全く無駄であったことを知る。)ドッシリ見本を詰め込んで八貫匁(三十二kg)片手で提げて二百米も歩くと手が抜けそうになる程の重量故、ドッコイショと肩にかついでの出発である。肉体的の労働と苦痛は軍隊の重機関銃隊で鍛えたのでさして苦にならぬ、張り切った頃である。新潟港埠頭迄、父が見送ってくれ、船が見えなくなる迄手を振って私の壮途の無事を祈り激励してくれたことも忘れられない。
二日二晩の船旅、船・汽車とも二等(今の一等)の通し切符故、船中は快適である。船室は四人の個室、食堂も食事も相当なもの、入浴も陸上旅館と変らない。三日目の午前北鮮の清津港着、満州国境の税関で手荷物検査に引っかかり、その厳重な検査に先づ驚かされた。
刃物が多く、特に刃渡リ一尺の白鞘短刀が二本(岐阜県関産)出てきたので危険物か兇器として疑いを持たれたらしい。
次の列箪時問スレスレに漸く例の短刀と池の坊鋏が欲しいことが判り、帰国後に送ると約束して曲りなりにも通関して、満州入口のともん第一の街圖椚(ともん)へ到着、(次の渡満からこの税関所長氏と懇意になり世間話のうちに通関された)生れて初めて満州の土地での第一夜を経験した。
日本人経営の旅館だが夜になると一月の寒気に震え上った。広い部屋に炭火を入れた火鉢が一つポツン。寒冷地独特のぺーチカの設備もない。ストープも電気毛布もない時代である。夕食の膳部に出されたマグロの刺身が氷結してガリガリと固くて味も、うま味もなくて、とても喰べられるものでない。翌朝便所で用を足していてフト下を覗いてみて驚いた。氷の山でその尖端がお尻につきそうになっている。つららの逆立ちの様に……汚物の臭みも色もない。人問の排泄物がこんな形で積るとは美事?と言おうか否驚くべき寒気である。後とも先ともこんな設備不良の旅館はこの宿だけであった。
サテ旅館で聞いたO金物商社へ参上した。杜長は大阪出身の人で満州全土の販路を持つ卸問屋であるとの事。相当の成功者らしく話が大き過ぎて呆気にとられる位で「先日水晶の山を買ったがこれは儲かるぞ!!」ホレこれを見てご覧と、水晶特有の無数に尖った尖端のある小児の頭大の大きな塊を見せられた。
内地に別荘を二つ買ってあるとか、法螺かと思えど真実の様でもあリ、話を半分に割引いて傾聴したものである。注文も無造作で大雑把である。両刃スリ込鋸三・四・五吋各二百打宛、六吋二百打といった調子で其他併せて約三千何百円、満州取引は一切荷為替付(ツマリ代金引換)故、貸倒れの心配はない。
利率は大体満州へ(売り込んでいた三条の)先輩諸氏は原価の倍に卸してる噂故、私は四割乃至五割掛けた値段で通したのであるが、値段の交渉は何にもない。
多分先人より安かったのだろうと判断して大いに気を強くし、自信と共に勇気百倍したものである。
今の金額にして約七、八百万円に該当するか……ちなみに兵庫県三木へ出張して五日間で約三千五百円集金して上の成績と言われた時代である。 圏椚の街で気をよくして次の目的地牡丹江へ行く。列車中に漂う独特の匂いがする。満人の常食するニンニクのせいであり、ここは満州であると改めて自覚する。牡丹江の駅は煉瓦造りの立派なもので、駅前通りも整備され家並みはマバラではあるが、日本人によって開拓された街故、内地の駅前と大差がない。
人力車で此の街の銀座通りをキョロキョロ見廻す。流石にその町名の如く街の商店街であり開拓地としては梢々まとまった街並風景である。この市街の中央にあるY金物小売店へ入る。緒麗に陳列された店内は当時としてはモダンな店である。この店から利器工匠具以外の家庭金物の注文を多額ではないが可成り満足すべき商売が出来た。このY商会との出会いがお互いの運命にかかわる重大なる将来が生れるのであるから因縁は不思議なものである。
これは余談になるがその後Yさんが故郷の富山県へ引掲げることになり、私が氏の店を商品共譲り受けて、兼ねてから渡満の希望をもつ弟に牡丹江支店として一切を任せ独立させた後日物語りがある。
そして弟は妻同伴でこの店の経営に当たり幸福な生活のうちに喜びと希望を抱いていた僅か二年後に突如ソ連軍が満洲へなだれ込み、関東軍の精鋭が南方戦線へ転出された手簿に乗じて攻め入って来た・・と同時に弟は現地召集されて関東軍に編入され不幸にも戦死したのであるから、人間の運命は紙一重で一寸先は闇と謂うが分からぬものである。
サテ牡丹江でY商会の他に二店取引きを済ませて旧市街を見物する。満人ばかりの市街で赤を主にした矢鱈原色の旗や店飾りの目につく所謂純然たる支那人の街である。
昼食時になったので満人食堂でハヤシライスに似た支那料理を注文して喰べてみる。味はづ先づだが喰べてるうちにカチンと歯にあたる固いものがあったのでその異物が何んであるか手にとって何度も眺めてみるに人聞の爪の様に思い当った。これが話に聞いた人肉混入料理だなと考えたら、途端に食慾を失い気味悪くなって釆た。
満人に麻薬中毒患者が多く、厳寒の街角に壁に寄リかかる様にシヤガミ込んで陶然と桃源境の居睡りをしてるのを見かけるそうだが(私も後日見た)それが其の侭の姿勢で翌朝凍死してるのが多いと聞く。その遺骸が秘かに食堂に料理されて客に供されるとか、話に聞いてはいたが渡満早々の私が問題の人肉混入の料理を喰べようとは、誠にどうも気味の悪い原始的な肌寒い体験である。何んとも殺伐な時代でもある。
牡丹江で三店の取引を済ませ北満の桂木斯(ジャムス)へ行く。この街は三条から私より先に満洲取引をしておられた先輩四社の方々は未だと聞いていたことと、軍が積極的に開拓 に取組んだ所謂北満の守りと目された土地故将来性の期待を最も感じさせる街である。従って開拓も急で日本人街等は牡丹江に遜色のない程で、同じ様に銀座通りがある。
牡丹江のY商店氏の知人で桂木斯日報の新聞記者をして居たのが新らたに金物小売店を開業した。郷里は熊本県出身の人で、誠に温厚篤実の好感のもてる青年でこの店へ先ず参上する。
将来桂木斯へ私共の支店を併設するに当りこの竹下青年を頼り同店に末弟と妹を同伴、約一ケ月居候して同唐の精神的なバックアップに依って同じ銀座通りに店を一軒買い取り金物店として、改築して煉瓦造りの店舗室元成し、末弟を主人とし、「三条洋行」の看板を掲げて開店発足したのである(牡丹江支店併設はこの店の後のことである。)万が一にも戦争に負けるなど予想もせぬことで大東亜共栄圏の国策に従ひ、私等兄弟の共栄圏を満洲でと自分なりの構想と夢をもっていたものだが、敗戦で一切の投資々産を棒にふり、身体一つで辛うじて帰国したという結果的には大失敗に帰した。(この末弟は現在の当社専務)この支店の件は何れ機会があれば稿を改めたい。
桂木斯からハルピンに通ずる列車が三ツ目の小さな駅に停車したときである。車中が急にザワく騒しくなリ乗客が一様に駅前を眺めるので何気なく私も駅前を見て生れて初めての珍らしい風景を見た。江戸時代白井権八の物語りにある鈴ケ森の刑場の晒首と同じ生首がニツ駅前にこれ見よ…とばかリに晒されてあるではないか。その首の真下に提げてある札に「大日本関東軍」の文字が墨痕鮮やかに人目をひく、坊主頭の首は既に紫黒色に変色している。
余程腕のたつ剣の達人が斬首したのか、顎の下から美事に切られた生首、胴体のない首丈けが板の上に乗ってる形は非現代的な何んともグロテスクな生嗅い風景である。この辺一帯を出没して荒し廻る匪賊(馬賊か?)の首であるそうな、軍に反抗して治安を乱す奴はこの通りだぞ!と軍の厳罰方針を誇示したものらしい。見たくとも見られぬもの、それは魚津の廣気楼と似たもので、二度と見れない、私の人生の記録である。
佳木斯からハルピンに行く。
一流の満人商杜を三軒廻る。最初の店は播洲で耳にしたことのある大商杜で流石に堂々たる店構えである。
サテ満語に就いて語らねば辻棲が合わないのて、説明しておく必要がある。何にも知らない私でも口もあり耳もあり手足も、また筆談もあり、何んとか通ずるものであるが商売は別である。靴ベラを落したので人道の商人から一個拾銭で買ったときはゼスチユアーで用が足りたが、それでは心細いので日本人商姓や旅館で習った日用語と取引の商品名その他を旅館へ着いてから一生懸命に勉強する。
先づ人力軍に乗ると「右へ行け、左へ曲れ、止まれ、一寸待て」などが必要だ、商取引には全部の商品名、寸法、上中並の等級、在庫の有無、発送矛定日、銭勘定、等々大体これ位覚えると行動と書倍にさして不便を感じない、後は日をを重ねるにつれ憶えること仲々警戒心が強く初めからは仲々話に乗って来ない。然し相手を観察する為か応待はよく、矢鱈サービスがよくて、サァどうぞと煙草をすすめ、マッチをつけて呉れるのでソツが無い。初めから積極的に接しないのは僅かの歳月の問に王朝政府から張政府となり今また日本の関東軍の軍政下となり戦禍に幾度も遭過した斜陽民族の自已防衛から来る自然本能かも知れない。だが交際してみると日本人より別な人情味もあり、山気がなく、親切で純情な人間味を知ることが出来る。
私の最も感銘深いK満人商社との取引を想起する。第一回目は何処も同じ見本的の少々の注文だけ、二回目のときには警戒心は全くなく愛想よく笑顔で迎え入れて呉れ快適な取引きが始まった。これは前の見本的の送品が予想外にお気に召したと想像して嬉しかった。 三回目出張のとき、主人が記念写真を撮らして下さいと、プロの写真屋を呼んで私と主人を中央にして従業員十三、四名で撮影して呉れた。次の四回目のとき、最高の親しみと丁重な熊度で応接間に通されてアレを見て下さいと・・・・見ると正面上部に前回の記念写真が引伸されて大型の額に入れて飾られてあるではないか。私にとって意外の光栄であり、この人の友情とも暖かい人間味にふれた気がして何十年後の今尚記憶に残るのである。
そして其晩招待された事も渡満後初めてのことである。夕刻約束の時間になると正確に人力車を連れて旅宿に迎えに来てくれ高級の飯店へ案内された。丸い大型テープルを私と主人と支配人の三人の他に美女三人の接客ガールで囲む。
その女性三人のうち一人が主人の二号さんで三〇才位の目立つ美形である。日本女性としてみても、稀れの美人である。
満人の習慣として客を招待する場合、必ず二号を紹介してサービスに当らせるのだそうである。そのサービスのテープルマナーも立派で感じがよい。支那酒をお酌す次の五回目の出張したときは自分の朋友を紹介(友人の同業者)しませうとて車を呼び、私を連れて案内して下さると謂う徹底した厚意である。日本内地では見られぬ、否信じられぬ位の特異の親切である。
その後想い出す暇もなかったが今筆を採って回顧する時特筆すべきなつかしい記憶が蘇える。
ハルピン、新京、奉天、撫順、大連を廻って帰国するのであるが、第一回の出張で取引は殆んど日本人売買で満人商社一〇店は見本的の少々の受註だけであった。満洲進出の人達は何れも関西、九洲の人が多く、東日本の人は殆んどなく矢張り昔からの伝統の血を引く ものらしい。
初回の全受註高約三万五千円、旅費合計約五〇〇円、日数二十三日間と記憶している。現在約二千倍であるから当時自分で感心する位いの有難い商売である。多少の冒険心と勇気さいあれば誰れでも出来たであろう妙味津々たる商売である。
満州取引では三条で私の先輩四人の方々は(内二人の方は次代)今尚健在で発展しておられるが・・・・此駄文を読まれたなら恐らく私以上の体験を想い出されるのでなかろうか。
以後の出張から自分で取引先を探し求めなくても客が紹介したり教えてくれたりで自然と取引高も上昇して、限られた商品だけに果して三ヶ月後の出張迄にこれ丈の注文品が間に合うだろうか。それ丈の生産能力があるだろうか?などと妙な不安すら覚えたものである。 今日不況と戦うせち辛い、そして苦しい商売のときに正に隔世の感ある往時のことを噛みしめてみることも又味なものである。
追記、其後満洲の西端山海関を経て北支へ足を伸ばして天津に入り、北京、済南、青島と出張するのであるが三条の商人としては初めてのことで、それ丈けに処変れば品変るで珍談、奇談といろいろの体験談があるが折あれば稿を改めてみたい……。
[説明]
ジャムス店内の写真の八重叔母さんは、その後、好青年竹下さんと結婚しますが、二人の子供をもうけた後に、竹下さんはロシヤ軍の侵攻に伴って現地召集をされ戦死し 子供二人を連れて苦難の末に、それでも復員を果たします。
また、ジャムスの写真の父の末弟、寿夫叔父さんは夫婦で着任しますが現地召集の後、ロシアに抑留され重労働に従事して、伐採した樹木で頭を打ち病身となっために帰されて、復員しますが奥さんは亡くなります。その後、当社の専務として活躍されましたが、77歳で5年程前に亡くなられました。
13年のお店の前の写真にいる富郎叔父さんは、その後、牡丹江に造った支店に新婚の夫婦で就任し子供が出来ますが、やはり現地召集で戦死し、叔母さんと子供も亡くなります。
13年の1才未満の私を抱いている寿恵叔母さんには、その後、実の母以上にお世話になります。バックのバスは、そこがバス亭のために時々留まっていたのですが、私がそのそばへ連れて行けと仕草をして、バスに触ってはご機嫌だったそうです。
父には、まだ、書き残したい事例は沢山あったと思われますが、その後、発表する機会がないまま昭和58年に77歳で亡くなりました。(平成13年7月1日記)
三条の刃物の販路とその変容
外栄金物株式会社 元社長 外山 登
〇自己紹介
明治44年創業の外栄金物株式会社の三代目社長でした。
(倅が跡を継がなかったため永いお取引のお得意さんだった名古屋の㈱丸政さんから株式を買い取って貰い、以後、会長、その後相談役になり、今年6月19日退職)
23歳の時に会社に入り、営業では北陸3県、長野山梨、滋賀京都大阪、兵庫を廻り、特に大阪は50年近く廻った。(最後の方で、三条の金物問屋としての営業体験を説明します
〇何故、三条に金物が造られるようになったか。
造る職人が増え、やがて、それを売る問屋が現れた。家釘は明治初じめ頃、洋釘が入るようになってから和釘(ワクギ)と言われるようになった。(和釘の図) 廻りの町村でも和釘が造られたが、それを地方に販売するのは三条の問屋が独占した。 それを記録した資料は沢山あるが、次がその一つです。
「敢えていう・・・三条の金物発達の事蹟をたずねるには、昔の三条町が、現今の三条市とちがって、享保二年(一七一七年)の半ばから明治維新のこと成るまでの間、田島、一ノ木戸の両村とは、領主を異にし、経済上の利害また必ずしも一致していなかったことを先ず知らねばならぬ。即ち享保三年以来、町、村間に、時々論争のことあったが、法の裁きの前には村は常に町に圧され気味であった。人情の常、それを快しとはしなかったが、平穏の生活を希う田島、一ノ木戸村農民多数の脳裡には、徒な紛争を愚と考える一面、半ば運命と為すあきらめがあった。考慮の結果は、小器用人ならば年季入れの苦労を要せず、家庭従業の見習いに依って、婦女子でも、容易に造り得る釘鍛冶に活路を見出した。 但しその製品は、田島、一ノ木戸及び裏館に金物商人の許されて無かった時代とて、これを全部、三条商人の売捌きにゆだねられることゝなった。」(三條市資料より)
また、隣町の燕でも和釘が造られており、そこの業者が江戸の問屋組合に納入しようとして係争となり、結局、三条の問屋経由で納めることで解決した記録がある。
三条の金物問屋は和釘を卸していた販売店から、その地方で売れる金物の製造を依頼され、それを地元で造って納品した。更に、その商品を他の販売店に売り込むことで。地元に鍛冶職人が増え、商品の数が増えて、職人と製品の数が増えた。 当時、和釘の他に造り始めた刃物は、小刀・毛抜・針・ハサミ・包丁・カミソリ等が多かったと言われ、その後、鍬、鎌等が増えた。
〇古い金物問屋の記録。
その一、天保三年、金物問屋、石田利八が六十三歳の時の記録 「その行商記は、石田家の仏壇のなかに入れてあったため虫 も食わず、火事の時などは何よりも先に持ち出し保存に大事 をとっていたので、現在まで残ったという。縦十五センチ、 横八センチ、漆塗り木製表紙 に折たたみ和紙で 三十ページばかりのもので、初代利八が二十貫の稲刈鎌、鉄、 小刀などを背負い、七十里の道を三国峠越えして上州倉賀野 宿まで歩き、ここから利根川を船で下り、常陸、下総、江戸 を行商し、同地で越後にない行燈の燈心十四貫を仕入れ、中 仙道を経て同じコース約百里を歩き帰国した、四十五日間の 記録である。」(写真6・7参照]。)(金物と草鞋より)
・・・石田利八の子孫、直系は石田昌三郎さんで蔵屋敷にお住まいで、金物店は石田重作さんが継承されていた。重作さんが私の祖父の弟弟子だったことから親戚付き合いをしていた。
その二、岩崎又造三代の記録。
一、みちのく父子二代の旅 岩 崎 又造 (四代)
「慶応二年、二十六才の春以来、毎年単独で奥羽の旅に出かけたものだが、その苦労は全く命懸けで、今人には想像も及ぶまい。」と在りし日の先代(三代)から聞かされた・・・・。
亡父は二十貫目以上の品物を自分で背負って行ったものださうです、関東方面と違って土地の開け方が活発でなかったためか、当時はまだ荷宰領任せの送り荷などは無かったものと云われていました。」「当初持参の品物中、一番売れたのは伊之助の鋸で、向ふでは伊之助の鋸が無ければ金物屋でないと、莫迦にした人さえ有 った位に其の名前が通って居たさうでした。その頃はまだ三条の金物も種類が余りに少く、随って沢山の商ひが出来なかっ たものといはれますが、商ひのやり方は、まず一つの町へ行くと「荷開き」といふことをやります。然うして土地の金物屋 さんを御招待して其所へ買ひに来て頂いたといひますが、段々と旅を続け、秋田から弘前、弘前から青森へ行くという風 に、其の土地々々へ行っては荷開きを行る。それが最初の中は何処へ行っても金高に成らない。」
「亡父の追憶談はこの程度に止めて、序に私の夢多かった若い日の行商記をお話しませう。
私は明治二十五年の春、十八の歳に親父と一緒に青森まで参りました。その時分は川蒸汽船で新潟までゆき、更に葛塚ま でゆく、それからずっと陸路を途中、寄り道しながら青森まで行くのですが、日数は如何しても十五日を要しました。その 頃はもう二十何貫目の荷物は自分で背負ってゆかず、荷物は船で新潟まで、それから木崎船で葛塚まで送りつけ、その後は 各地の宿場に問屋がありまして、その問屋が馬で運んで呉れました、所謂立て場ですが、問屋といふのは馬の差配をして居るので却々親切にしてくれたものでした。途中で親父の荷開きするのを見習ひましたが一と口に百五十里と云ふても決して楽な旅でなく、時々親父に、意気地がないぞと励まされました。その次からは一人旅の行商でしたが、漸っと割良く商ひが出来て利益も見られるやうになったもの、高々二千五百円か八百円程度のものでした。」
「塩越村は秋田県の本荘町から三里許りの所に在り、其所で出来る鋏に「守道」といふ作銘が切ってあった。その鋏は形も 合ひ刃もたしかに良い。それを見本として作ったので、後代になっても昔を忘れぬやうに「守道」と名附けたものやう に記憶して居ります。塩越の村は、今では象潟町に合併されて居るさうですが・・・・・・ナイフは明治二十六年に私が青森の一小 間物店で見付けたものを見本に、五百五十丁の注文を或る商店から受けて帰り、之れを古城町の荒物鍛治、田中亀七さんから造って頂いた。
それが三条のナイフの草分け仕事でせう。」(金物と草鞋より)
・・・近年は「守町」と言われている。その図。
〇鍛冶職が、その後、進化して機械加工の工場になった例
明治時代荒物鍛冶だった田田中亀七の子、田中亀太郎 について 「明治三十二年、田中亀七の長男として古城 町に生まれた三条ミシン部品製造の先覚者。
父亀七は明治二十六年に金物商岩権が青森 から持ち帰った洋ナイフを参考として三条最初の洋ナイフを完成させる。また大正十四年 に越後鉄道の弥彦線が全線開通して、その記念品として三条最初の爪切りを作る。
亀太郎は父に似て研究熱心の人であり、昭 和十年代より国内の他業者に先がけミシン部 品である国産ボビンケースを製造する。 昭和十七年に工場を古城町から島田に移転 させて業績を伸ばし、最盛期には工員二百五 十余名の企業に成長する。亀太郎は市会議員 消防団長、体育協会長、公安委員長、第五期商工会議所会頭をする。 「会頭在職中の昭和二 十六年、五十一才で没 す。また尺八をよくし 三曲研究会長をする。」 (市史資料、商工会議所誌)(三条その人物より)
・・・田中亀太郎の三男、修君が私の親友だった。
〇私と地元金物業界との関わりについて
40歳の時、金物青年会会長を一期(3年)勤めた。
その後、金物卸協同組合の会員になってから、の月刊誌「金物ニュース」の編集長を一期(3年)勤めた。
青年会出版の「刃物の見方」の編集委員を勤めた。(あとがきは私が書いた)。
卸商組合編集の「金物と草鞋と」二巻共編集委員。
三条商工会議所刊の「三条鍛冶の技」の編集委員長を勤めた。 (金物卸商組合の第10代組合長の高橋一夫氏は小中高校が同じで、同年の親友だった) ・・・これらの本の写真
三条商工会議所編集の金物産業を紹介するDVDを制作したが、私が、その第三章「熾盛の道」(シセイの道)で三条の金物の歴史を説明した。
これは、三条商工会議所のページに掲載されています。 熾盛の道 で検索すると出ると思います。
これらの関係から、地元の金物の歴史と大工道具と刃物について、自然と勉強するようになっていた。
〇私と日本刀との関わりについて
日本刀は日本古来の製鉄法である、たたら製鉄で造られた鉄で造られていますが、日本の刃物も原点はたたら製鉄で造られた鉄(玉鋼と生鉄)にあります。
鋼を研究していたことから、日本刀に興味を持つようになり、刀の研究をするようになった。
栗原信秀と云う幕末の名工が三条の出身であることを知って、以後、信秀について調べるようになり、地元に伝わる資料があったことから、それらを元に信秀に関する8編の論文を、刀剣美術誌に発表した。(一部、別巻もあり) また、明治になって隣町の加茂に5年間滞在して鍛刀した會津の名工十一代兼定の事績についても研究して論文4編を刀剣美術誌に発表した。
・・・掲載した刀剣美術誌等の写真
下の8冊が信秀の論文が掲載されたもので、上の4冊には十一代兼定の論文が掲載されている。
「栗原信秀の略歴 外山 登
栗原信秀は文化十二年(西暦一八一五年)西蒲原郡月潟村に生まれ、父は栗林姓で、母は池氏の出身です。父が早世したため母は三男一女を連れて、三条市(当時は町)四の町土手の太物商今井氏に再婚します。
信秀は長男で十三から十五才の頃、京都へ出奔したといわれますが、京都で何をしていたかは定かではありません。その後、三十才を過ぎて当時四谷正宗の異名を取る江戸の名刀工清麿に弟子に入り、独立後、嘉永五年の最初の作品に自分で彫りをしていますので、奥さんが有名な仏壇師の娘であったことから、京都では仏壇に関係のある仏壇金具の彫り師だったのではないかと想像しています。 そして、信秀は自作の刀身に自身彫り(刀工が自分で彫り)をすることで有名になります。 明治維新政府は明治二年、維新政府のために官軍に参加して戦死し霊を祭るために招魂社という神社を建立しますが、この神社の御神体に当たると思われる御鏡を信秀に造らせるのです。 このことは、当時の政府が信秀こそ、お国の神社の御神体を造るに相応しい刀工とであると考えたからだったと思います。これは、明治政府が信秀こそ日本一の刀工であることを証明したことではないかと考えています。 招魂社はその後、明治十二年に靖国神社と改称しています。現在、首相や大臣が参拝する、しないで、もめている靖国神社の御神体が三条出身の信秀が奉納した御鏡なのです。 これは信秀の生地である三条市民にとっても名誉なことですが、市民にはあまり知られていないようです。 当時、この御鏡を造る処が沢村版から河鍋暁斎の作の三枚続きの錦絵になって喧伝されました。そして、新聞にも掲載されたといわれています。 信秀はその後も天皇の拝刀を制作したり、数々の名誉ある仕事をこなして明治七年の夏三条へ帰ってきます。 三条では、源川家の鉄鏡、田上の田巻家の鉄鏡、かって新発田藩の豪商だった白勢家の剣、三条八幡宮と弥彦神社の御鏡、その他、沢山の名品を製作しています。(田巻家の建物は現在椿寿荘として公開されています) ある時、弥彦参りの折りに眼鏡を紛失し、明治十二年の秋、東京に眼鏡を買いに行くと言って、特に近隣に別れの挨拶のないまま東京へ旅立ちますが、明治十三年二月娘婿の家で癌を発症し、そのまま帰ることなくで亡くなります。 享年六十六歳、墓は上野の忠綱寺にあります。」
〇日本の刃物と日本刀の関係
私が、刀の勉強をしたことから日本の刃物と日本刀との両者には切っても切れない関係があることが解った。
尚、栗原信秀は明治7年に故郷の三条に帰省したが、当時の地元の鍛冶屋に玉鋼の焼き入れを指導した記録がある。 三条鋸の名門伊之助の三代目が素材を生鉄から玉鋼に変えた頃で、その焼き入れを信秀が指導し、また、小刀の名門、梅心子圀光にも玉鋼の焼き入れ方法を指導したという記録がある。その他の鍛冶屋にも指導したと聞いている。 尚、日本刀は玉鋼と生鉄を巧みに組み合わせて鍛造されており「折れず曲がらずよく切れる」と言われる元になって居る。
・・・刀の断面図(「刃物の見方」より)と参考資料・十一代兼定の地鉄と刃紋
〇日本の刃物の特徴
たたら製鉄は中国から朝鮮を経て伝わって来たが、両国では継承が途切れ、この製鉄法は日本だけが継承した。
たたら炉では生鉄が大量に出来るが、鋼は少量しか出来ないため、鋼を有効に使うため、刃物を造る時に厚い生鉄に薄い玉鋼を鍛造で張り付けて造られた。これが日本の刃物の原点だと考える。
鋼は赤めてから水で冷却して焼き入れすると曲がってしまう。日本の刃物は薄い鋼に厚い生鉄が貼り付いているため、曲っても直すことが出来た。
炭素量が多い程焼き入れすると硬度が上がるが、冷却後の曲りも強くなる。だが、厚い生鉄に薄目の鋼を鍛接しているため、曲りを直せるので、炭素量の多い鋼で硬い刃物を造ることが出来た。更に、刃物は使えば、必ず研がねばならないが、研ぎ面の切刃部は硬い刃部は狭く、柔らかい生鉄部が広いため研ぎやすい。要は、よく切れて研ぎ易い刃物が出来た。
明治10年代に、洋鉄が輸入されるようになると、日本の刃物も価格の安い洋鉄が使われるようになるが、鋼を生鉄に鍛接して造る製法は、そのまま継承されたので、以降も、焼が硬くてよく切れて、研ぎ易いという特徴が伝承された。
その結果、例えば日本の包丁は刃先を薄く、硬く造られているため、世界的な人気になっている。
この原点が、たたら製鉄の玉鋼を使って作った古来の製法にある。
・・・日本の刃物の鋼付の図
玉鋼の特徴について
「玉鋼の焼き入れ」(岩崎航介さんの資料より) 日本剃刀は着鋼であるから、軟らかい地鉄のお蔭で、割れることは殆どない。また焼で曲がっても、軽く叩けば直る。但し油断をすると、雲がついて、失敗する。
日本人が着鋼を発明発展させたのは、大した技術である。昔の人が全鋼で苦労した末、この方法を見つけたものと思う。 外国の刃物は全鋼であるから、割れ、曲がり及び雲で困ったに違いない。その結果、どうしたかと云えば、油で不完全な焼を入れて、軟らかい刃物を作った。だから牛刀とか外国の鎌は、丸鑢で刃がつくのである。
硬い刃物が欲しい場合、外国人はどうしたかと云うと、焼が入り易いように、クロムとかタングステンを混ぜた。即ち特殊鋼を使ったのである。
彼等の最も多く使ったのはクロムである。打刃物鋼に、タングステンを混ぜたのは、日本の安来鋼の青紙だけである。青紙の手本になったのは、英国製の大砲を削るバイトの刃である。砲兵工廠から屑鋼として出たものを、越後三条の初代永桶永弘が使って見て、成績がよいので、安来鋼の工藤治人博士に送って、これと同じ鋼を作るようにしたのである。大砲を削るバイトだから、一種の高速度鋼である。
独逸とかスエーデンの剃刀は、タングステンを入れず、クロムだけを入れている。
日本の玉鋼は、如何なる鋼よりも純粋であるから、切味は正に世界一である。だが焼入れの困難は大きな欠点である。
その上もう一つ困る性質がある。それはグラインダーで研磨して仕上げをしてゆく時、少し熱くなって、焼戻しを部分的に受けると、忽ち刃がくねくねと曲がって、廃品になるということである。急いで西洋剃刀を仕上げようとするほど、よく曲がる。と云って水を掛けながら作業をすると水の為に表面が見えないので、精密な仕上げが出来ない。 斯くして玉鋼は原料として世界一の優秀さを示し、切味も最高ではあるけれども、鍛錬、球状化、焼入れ、仕上げ等の困難があるため、どうしても名人芸の少量生産になり値段も非常に高いものになって、近代工業の対象にはならない。まことに惜しいことである。(「刃物の見方」より)
岩埼航介さんは鋼の研究者として有名たが、何故刃物の研究に熱中したか 岩崎航介著「日本刀と私」より
刀鍛冶を求めて 私の家は新潟県三条市にございまして、有名な刃物の産地で、今でも市内に従業員全部で、一万五千人位おります。
工場が約二千軒位あるんです。私の家はそこで代々刃物の問屋をしておった訳なんですが、父親の時、第一次世界大戦の時、欧州から輸出されていたドイツ品、イギリス品が来なくなったものですから、其の隙に乗じまして、東南アジア、それからアフリカ方面に、刃物と南京錠等を輸出していたんです。
所が第一次世界大戦が済みますとドイツが巻き返しに来まして、特に激しい競争をやりましたのはインド市場なんですが、結局大正十一年に三条の方のナイフは全滅して了ったんです。其の時父親は残念乍ら財産が左前になりました。
私は丁度その大正十一年の三月に、旧制新潟高等学校を卒業しまして、三条の家へ入って、兄と一緒に父を助けたのです。併し私は三条の工業特に刃物と云うものを見まして、此の儘では絶対にドイツには勝てない。狙いは日本刀にある。それは我国には六百五十年程前に、五郎入道正宗という名工を出したのを始めとして、江戸時代の中頃には長曽弥の虎徹(ながそねこてつ)、末期では山浦清麿(きよまろ)と云う様な人々が出て、世界一の刃物である日本刀を造ったんです。此の切味が万邦無比だと云う様な事は、外国人も日本人も等しく認めている所なんです。
此の日本刀の秘伝を調査して、それを応用して、ナイフ、剃刀、小刀(こがた)、鋏類を造れば、ドイツの刃物の如きは、何んの事かあると、ここで一つ父親の仇討ちをしてやろうと云う決心をしまして、当時年齢は十九歳と三ケ月でした。鎮守八幡宮に参拝しまして、三十年の計画で此の研究を完成させるから、どうか一つお守り願いたいと、そう云う願をかけました。
最初私は鎌倉へ行きまして、永野才二と云う先生に従って、日本刀の研ぎを学びました。研ぎ方を先にやったのです。それから正宗二十三代の山村綱広(つなひろ)と云う方がおられましたので、そこを屡々訪ねて、御話を伺いましたが、まだ入門すると云う所までは行かなかったんです。そこで私は考えまして、これは唯刀鍛冶の所へ行っただけでは話にならんと、これは矢張り学問というものを基礎にしなければならんと、そこで私は、旧制新潟高等学校の文科乙類の第一回卒業生ですが、今の東大の文学部国史学科へ入って、日本刀の秘伝書である古文書を読む学問を学ばねばならん、そう考えたのです。
運の良い事に、鎌倉の傍に逗子という町があります。其の処に私立逗子開成中学と云うのがあり、其の校長さんが岡里三善(みよし)という海軍少将で、旅順閉塞隊の広瀬武夫の親友でした。其の校長が変わり者でして、自分を此の学校の先生に傭って呉れと申し出たんです。そうして結局傭われまして、三日間中学の先生をするんです。三日間は大学へ通うんです。今と違って出席を取らないんです。試験さえ通ればよろしいんです。今の人には三日中学の先生をして、三日大学へ通うと云う様な、両棲動物の生活は出来ない訳です。そうやって目出度く三年で国史学科を卒業しました。それから今度は、日本刀の製法と云う物は科学的に研究せねばならん、現代科学でやれば、五郎正宗の刀なぞは直ぐ出来るだろうという訳で、今度は工学部冶金科へ入ろうとしたんです。
所がドッコイ駄目なんですね、高等学校の理科を卒業した人と一緒に、入学試験を受けろというんです。已むを得ませんので、微分、積分、物理、化学などを独学でやらざるを得ないんです。源頼朝だの、楠正成を相手にしていた奴がね、今度は微分だの積分等ですから、辛かったです。併し何年かやった結果、入学試験を突破しまして、工学部の学生になって三年の時の卒業論文は、「日本刀の鍛法」と云うのを出したんです。それから大学院で五年勉強しました。結局学生生活が東大だけで十一ケ年、三十六歳まで金釦をはめて通ったのです。其の時結婚していまして、女房子供がおりました。其の後副手という役職にして貰って、数ケ年東大で研究しました。昭和二十年に三条へ戻って来た訳です。そうして今度は三条で刃物を造る研究をしたのです。其の間に、私は全国の刀鍛冶を捜索しまして、一体刀鍛冶は全国で何人残っているか、どんなウデを持っているか、それと刀鍛冶の子孫というものが、どれだけあるんだろう、その子孫の家に、どんな秘伝書が残っているんだろう、こう云うのを文学部に在学中から、捜索し続けていたのです。今日も尚続けているのです。 昨年発見された秘伝書があります。それは新潟の鍋茶屋の跡継ぎの方が、高田市で見つけて来て呉れた秘伝書があるんです。是は全国で五十三番目の秘伝書なんです。そんな事でどこから、いつ現われるか判らんので、調査の手はゆるめる訳には行かんのです。そうやって刀鍛冶の家に伝わっている秘伝と、秘伝書に書いてある秘伝と、是に工学部治金科で学んだ鋼の知識を加えて、やれば、天下の名刀が出来るだろうと、此の予定を一歩々々進んで来まして、遂に昭和二十六年、八幡宮に約束した予定の満三十年が来ました。(「刃物の見方」より)
〇青紙の由来
三条の鉋鍛冶の元祖と言われる初代永弘が、イギリスで大砲の中を削るバイトの廃品が輸入されて新潟港に上がったものを、鉋に適切になるように鍛造して使っていた。 (私が所蔵している初代作の古い鉋は火花試験で白紙系なので、極く初めは玉鋼を使っており、その後、中古の輸入材のバイトを使ったものと思われる)
スクラップ1の説明 この写真は別々のスクラップのバイトを穴の所で切断したものですから、正しく繋がらないのですが、右方の穴の先にも穴があり、左の穴と二つの穴で回転する機械にセットされて砲身の穴を繰ったものだそうです。 左側の端がドリル状になっていて、下方に刃が付いています。
スクラップ2の説明 次の写真はやはり同じ材質で作られており、正確にはどこに使われたか解らないのですが、バイトで繰った後で機械で圧入して正しい円形を作るためのものではなかったかと想像されるものです。(いずれも岩崎重義さん宅で撮影)
・・・バイトの写真
〇一地方都市の三条の金物問屋が全国に販路を持つことが出来た理由。
金物問屋が地方の販売店と地元の職人さんの仲介したことから、多くさんの金物が造られるようになった。
三条の金物問屋が和釘を地方の販売店に卸し、販売店から依頼された金物を地元の職人さんに造って貰って納め、更に、他の地方の販売店に売り込んだことから様々な製品が増え、お客さんが増え、それらを繰り返すことで発展して来た。 時代が変わって、各地方に地方問屋が出来ても、三条の問屋は地元に出来た金物をダイレクトに卸すことで全国の販売店と取引をすることが出来た。
金物問屋としての私の体験。
23歳の時、北陸の石川県、富山県を回り、その後福井県を一出張で回った。長野県、山梨県を一出張で回った。大阪の販売店を回った。新潟県内を回った。市内の金物問屋にも仲間卸をし、大阪、堺市、三木市の問屋にも仲間卸をして一出張で回った。
外栄金物株式会社について、
祖父栄助は山弥金物(有)に7年修行して金物問屋を開業する時、実家は米屋で兄徳太郎が継承していたが「米屋は相場で動く商売で不安定なので、俺も一緒に金物屋をやる」と言って二人での開業することになった。(当時は米の値は相場で決まったそうです) 祖父が営業で兄が経理担当だったそうです。
その後、お互いの子供が大きくなり、私の父が十九歳の時、当家は隣の町内に外山栄助商店として独立した。祖父がよく申していた。「本家は家系では本家だが、商売は、うちが本家だ。」
昔の三条の金物問屋は住まいと店が一体で、当家も自宅が金物問屋そのものだつたので、子供の時から金物屋の仕事を見て育った。 祖父は後年、何時も茶の間で、床の間を背にして火鉢の前に座っており、私がまだ学校に入らない頃、よく火鉢を挟んで祖父の正面に座っていた。ある時、「徳川家が300年続いたのは三代目の家光が優れていたからなんだよ。ノボル、お前はウチの三代目だから、ガンバルだぞ。」と言われた。 私は今でも家康は知っているが、徳川の歴代で、他に名前を知っているのは家光だけなのは、この時に言われたのが頭に残っているから。 ・・・子供の時の写真
日本の建物は、建具類も含めて全て、昔から伝わった専用の手道具で造られていた。 その日本建築で使われる道具が、和釘の製造から始まった三条で、ほとんどが造られるようになった。三条の金物問屋は、それらを産地問屋として全国の金物店に卸しに行くことが出来た。
処が、近代文化の変化と共に建築工法が変わり、それが三条の産業にも及んだ。 大工道具の大きな変化の例として、日本の大工道具の一つである、伝統的な両刃鋸について説明する。
先に伊之助鋸の人気を説明したように、両刃鋸は三条の主要な産品だった。
昭和42年三条鋸組合には109名の組合員がいた。(「三条鋸の沿革」三条鋸工業振興会刊より) また、現在、長岡市に編入された脇野町にも、鋸職人さんが沢山居た。
大工道具の両刃鋸を販売して来た私の体験 本職用の両刃鋸の職人さんの中から、これはと思う鋸に注力して販売して価格も特別に安くして貰えたのでメーカーブランドでも利幅が取れた。他に、当社ブランドで頼める職人さんがおり、そこに独自の銘で造って貰ったものはもっと利幅が取れた。 販売店では、購入した職人さんが切れ味を認めてくれれば、また買いに来てくれたし、販売店もお客さんに薦めてくれたので、在庫が減ると自動的に発注してくれた。
当時、両刃鋸は三条の金物問屋の大切な商品であり、当社の主力商品の一つでもあった。
その鋸業界に大きな変化が現れた。
昭和50年代の初め頃に三木の玉鳥産業が替え刃式鋸を発売した。 当社にも社長さんが試し切用の木材と鋸を持参されて宣伝に来られた。
その時に感じたこと
1背金が付いており刃の厚みが薄いためよく切れた。
2替え刃の値段が目立て代より安かった。(両刃鋸はある程度使うと必ず目立てが必要だった)
但し、替え刃鋸はメーカーブランドで大量生産品なので利幅が取れないので、販売店から頼まれたら販売したが、当社から薦めることせず、利幅のある両刃鋸を主に薦めていた。
処が、昭和56年の年初に出張した初日に注文がガタ減りし、特に頼りにしていた両刃鋸が全く売れず、ダイレクトに替え刃鋸の存在を突き付けられた。
時代の変化を感じて、帰店後、即、替え刃鋸を扱うように取り組み、玉鳥産業のレザーソー、その後、発売された岡田金属工業のゼットソーは発売と同時に取り扱った。更に、他の替え刃式鋸も出来るだけ取り扱うようにした。
参考資料
昭和50年3月レザーソー工業株式会社 販売部門独立。 玉鳥産業株式会社を設立。(ホームページより)
岡田金属工業所(ホームページより)
1977年(昭和52年)衝撃焼入れ(ハード・インパルス)の加工研究
1982年(昭和57年)ゼットソーの発売開始
金物ニュースに掲載された、両刃鋸が替え刃鋸に変わり行く様子の記事。
三条金物ニュース昭和61年2月20日号より
「替刃式鋸(1) 昨年の八月号の業界漫歩に替刃式鋸を載せて未だ半年しか経たっていませんが、この業界では大きな変化が生じています。
最近Z社の方に会い取材しましたので、もう一度この問題を考えてみたいと思います。
先の記事の中で、月産枚数をZ社六万枚、R社主力二品種で七万枚と書きましたが、その直後のR社の話では全製品の合計なら十二万枚と聞かされ、さすがに先発メーカーだけの事はあると思っていました。
ところが、この度のZ社の話では、その頃は確かに六万枚程でしたが、今は十二万枚になっていますとのことでしたが、市場では依然として品不足状態が続いているため、Z社は値崩れ防止を考えて、わざと増産を控えて品不足にしているのではないかと考えていた私は、驚いてしまいました。(市場ではそういううわさもあったのです。) 伸び盛りの商品の勢いを見せつけられた感じです。
Z社の大工用衝撃焼入れ替刃式鋸月産枚数推移
57年7月 発売
59年1月月産枚数 15000枚
60年1月月産枚数 60000枚
61年1月月産枚数 120000枚
これからの増産予定は新サイズのみ小々増やし、それ以外は現在考えていないとの事でしたが、その理由は、問屋段階では足りない足りないと言うが、小売店での情報を掴んで判断しているとの事でした。しかし、私は当分売れ行きが増え続けるだろうと予想しています。
新しい情報によるこの二社の年産枚数を単純計算すると二百八十八万枚にもなります。そして地元の事もあり、替刃式鋸の販売も三木の問屋が先行し、既存の両刃鋸メーカーに対する影響も三木に早く表れていて、その販売量の急激な落ち込みに悲鳴を上げているそうです。
特にZ社が急進したこの一、二年が悪いそうで、三木の問屋筋のうわさ話で、両刃鋸職人がZ社の前で抗議のストライキをやりたいくらいだと話していたそうです。(冗談でしょうが、心情が表れていると思います。)」
三条金物ニュース 昭和61年3月20日号より 替刃式鋸(2)
それでは、先行したR社の独占状態をZ社がどうしてくずす事が出来たかを考えてみたいと思います。まず形から説明します。
R社の主力商品は図Aの型で、刃厚が〇・三ミリしかないため、補強に今までの導突鋸よりやや短かめの弦が付いていたために合板等の板物なら斜めに使って十分でしたが、深く切り込めないため本来の両刃の使い勝手を全てカバーする事が出来ませんでした。 Z社も替刃の固定方法こそ別でしたが、初め同じAの型で参入しますが、市価に喰い込めず苦戦しており、現在爆発的に売れた製品はBの型を発売してからでした。ですから一般に乙社の鋸と言えば、現在てはBの型を指します。
B型は板厚が〇・六ミリあるために、マチの部分をわずかに出た短かい補強で十分なため、板物はもちろんのこと、両刃の横挽と略同じ使い方が出来ました。
ただR社でも以前から既にB型に当るものを別に発売していて、少しずつ売り上げを伸ばしていた頃でしたので、Z社の製品が爆死的に売れた本当の原囚は、もっと別な理由による所が多かったようです。
Z社によれば当時、木造家屋に不燃材という新材料が使われ始め、公団融資の住宅には台所の火を使う廻りにかならずこれを使う事が義務付けられたそうです。そして平均的一般住宅一屋当リの使用量を計算すると、この不燃材を約十八m切断せねばならず、既存の鋸を使って切るとわずか四mしか切れないため、耐久性のある不燃材用鋸の開発を研究していたそうです。 そんな訳で、不燃材用の鋸の需要が増えると考えたのです。
そして昭和五十五年に西独のインパルス社の衝撃焼き入れ機をこの目的で導入したそうです。
この機械で刃先を加エして不燃材を切ったら四十mの切断が出末たそうで、これなら商品になるのではないかと考えて、不燃材鋸として発売したとの事でした。
結局この不燃材用鋸は、用途が限定されているため少しずつ売れる程度たそうですが、この衝撃焼き入れを木工用鋸に利用してBの型で発売したのが、Z社の商品で、先回書いたように五十七年七月の事でした。
最近は合板だけはでなく、やはリ接着削で成形した集成材という新建材が増えておリ、いずれも硬化した接着剤のため鋸が持たなかったのですが、集成材の方は厚味があって、A形では弦のため十分な加エが出来ませんでした。
R社が別型で発売していたB型の商品は普通焼き入れでしたが、Z社の新製品は木工用を目差しながら衝撃焼き入れをしていたため、その耐久性と万能性から大工さんに好評で迎えられる事となります。
初めの商品が横挽きの九寸目だったため、造作鋸と両刃鋸の九寸がその後大きな影響を受けた事は皆様も御存知の通りです。
最近、お得意の目立屋さんから聞きましたが、それまでの替刃式鋸はどこのメーカーのものでも、切り込んで行くとかならず右に流れ、薄い板物には使えても深く切り込む角材には向かなかったが、Z社のこの品だけは真直ぐ下って、しかも切り口もキレイになるとの事でした。
目立も一工夫してあり、目の頭は平らに揃わねばならないという常識に反して、わざと高低をつけている事は、あまりに有名です。
両刃鋸の大きい方が電気丸鋸に喰われた上に、今度は、売れ筋の九寸が喰われる事となったのです。その後八寸目が出来ていますので、これから八寸両刃が減って行くと見られます。」 (当時、金物ニュースの編集委員長をしていた私が、変わり行く業界の様子として書いたもので、当時、私は三木市へ出張していた。)
当社が替え刃鋸に力を入れ、2社の商品の他にも替え刃式メーカーから仕入れるようにしてから、替え刃式鋸だけで月間仕入れ高が500万円になった。そして、両刃鋸は殆どゼロになった。
以上は大工道具の主力商品の一つだった鋸業界の変遷だが、大工道具の、もう一つの主力の鉋は、もっと前、1961年(昭和36年)マキタ電機が電気鉋が発売してからと、その後、木工機械の平面研磨機で超仕上の機械の出現したこと、更に、ハウスメーカーが資材を工場で生産して現場で、組立てれば家が出来るプレハブ工法が普及したため売れ行きが激減した。
主力商品2点についての説明だが、他の古来から伝わった全ての大工道具が売れなくなった。
〇三条の金物問屋の繁栄と衰弱の理由
大工道具が売れた頃は、鉋、鋸、金槌、鑿、鋏(握り鋏、木鋏など)、鉈、鉞、切出し等々打ち刃物は、問屋が自社銘を打ってもらうことが出来た。(但し、一部の有名メイカーでは自社銘でしか出さない処があった) 自社ブランド品は他社との競合が無いため、利幅を取ることが出来たので、少人数な(例えば家族だけの)小さな業者でも利益を出せたが、それらの商品が全て売れなくなってから、業者数は激減することになった。
三条金物卸組合の組合員数 三条金物卸組合 386社(昭和53年7月31日)(金物と草鞋と より)
三条金物卸協同組合の創立時 362社(昭和63年10月1日) (金物と草鞋と 続編より)
三条金物卸協同組合の現在 160社(平成30年6月1日)(ホームページより)
直近の160社の中に市外の問屋の支店、出張所が16社含まれている。
また、軒数は減ったが、業績の拡大で大きな企業になった会社が沢山ある。
次が特に大手の業者の売り上げ(アイウエオ順、各社のホームページより)
ア-クランドサカモト(株) 1052億円(平成30年2月期) HCへの卸とHC経営
(株)髙儀 317億円(2017年度グループ全体実績) HCへの卸と既存店への卸
(株)ハーモニック 368億円(平成29年度実績) カタログ通販
パール金属(株) 380億円(グループ合計約530億円) HCへの卸
他にも、年商100億円未満だが大手が数軒ある。
〇産地問屋としての当社の対応
三条には大工道具以外の商品を工場生産する工具類の大手メーカーがあり、それらのメーカーの代理店として販売していたが、代理店同士が同じブランドで価格競争をするため利幅は少ない商品だった。
他にも、全国区の大手メーカーの代理店もしていたが、同じ理由で利幅は取れなかった。
但し、これらの代理店の商品は、オリジナル商品を受注した折に、序でに受注出来たので売り上げには大きく貢献した。
大工道具が売れなくなってから、地方の問屋として全国を相手に商売するためには、地元で出来る商品が必要なので、オリジナル商品を自社で開発してOEMで地元の工場で製って貰い、それらの商品開発に特に力を入れるようにした。
建築現場の変化 日本古来の建築は、大工さんは地上でほとんどの工作をして、建前でそれを組み上げていたので高所での加工作業は殆どなかった。従って、腰に下げるものは釘袋だ゛けで用が足りた。
その後、セメントを使う高い建築物が増えて来て、足場を組んだ高所での作業が増えた。セメントの枠を造ったり、解体したりする仮枠用の柄の長いハンマー、シノー、ホームタイ回し、バール等が使われるようになり、高所では両手がフリーでないと危険なため、それらの工具を腰に下げるホルダーの需要が出て来た。
「型枠(かたわく)とは、液体状材料を固化させる際に、所定の形状になるように誘導する部材、枠組みのこと。」(ウィキペディアより) 型枠は液体状材料が固まってから取り外すため仮の枠ということで、一般には仮枠とも言われ、ここで言う液体状材料は固まる前の液状セメントのことです。
工具ホルダーの開発
懇意にさせて頂いていた尼崎の鋸の目立屋さんが、時代の流れを見ておられ、仮枠用の道具に注力されていました。ある時、お客さんが腰に変わったホルダーを付けておられたので、問い合わせたら、現場の端材で造ったが、とても便利だよ、と言うので、その略図を描いて頂いて3打のご注文を頂いた。それでハンマーを腰に下げる最初の工具ホルダーを5打製作してもらって、残りの2打は他の販売店に3ヶ、5ヶと販売したのが最初だった。 当社が製作した最初の工具用ホルダーだったので、商品名を当社の登録商標のカクイを冠して、「カクイ印工具ホルダー№1シノーハンマー差」とした。 その後、シノーの使用が減ったので、名称は「カクイ印工具ホルダー№1ハンマー差2ツ口」に変更した。 このように工具ホルダーシリーズはお客様の要望を商品化したもので、当社の主な販売先が関西だったことから、関西で売れる数が増えて行った。
当時、他のメーカーに真似されるといけないので、提案を頂いた販売店さんに、実用新案に申請されませんか、とお薦めしたが、こんな安い商品にそれだけの費用は掛けられないと言われた。
いろいろ考えた末、折角のアイディアを真似されたらもったいないと思い、当社で申請しようと思って、当時社長の父に言ったら、単価が低いこと、数が幾つ売れるか解らないので、そんな経費は会社で出せないと言われ、やむを得ず、私個人で実用新案を申請した。
それで、日本最初の金属製の工具ホルダーとして認可になり、これが切っ掛けで、その後、お客様の要望を聞きながら、次々と新しい工具ホルダーを開発した。 (尚、他メーカーに真似をされたが、意匠登録を取っていたために販売を止めさせることが出来た事例がある)
・・・工具ホルダー№123
・・・工具ホルダー№3装着図
この3品だけしか無かった頃、最高時、合計で年に35000ケ売れた。
その後も工具ホルダーの種類をどんどん増やし、数え切れないほどの種類を造った。
(ネット上で「カクイ工具差し」で検索して頂くと、沢山の通販業者が掲載しています)
また、他の用途のオリジナル商品も開発したので、古来の大工道具が消滅してからも、産地問屋として、各地の販売店に販売を継承することが出来、更に新規の販売店も開拓をすることが出来た。
私が考案して特許、意匠登録を取ったアイディアは30点以上あった。
尚、三条の工場も以前は全て地元の問屋経由で販売していたが、最近はダイレクトに大手商社と取引する処が増えている。これからもメーカー、問屋とも変化が続くと考える。
鳶の歴史
飛鳥~安土・桃山時代・・・鳶職と呼ばれるようになる前の時代。城普請などを行っていた。
江戸時代・・・鳶職と呼ばれるようになる。江戸の花形といえば大工、左官、鳶の三職のことで、いずれも江戸の町を築くために力を振るった職人であった。当時、主に木造家屋の建築現場で足場の架設や棟上の作業を行っていた。また、火事の現場も活躍の場であった。江戸時代の消火活動は延焼しそうな家屋を先回りして壊す破壊消防であった。そのため家屋の構造を知り尽くしていた鳶職人たちが消防組織の先頭に立ち、鳶口や掛矢を駆使して鮮やかな働きで家屋の解体を行っていた。当時の鳶職人たちは火消しが終わると羽織りの裏を返し、そこに描かれた派手な絵模様を見せびらかしながら町を練り歩いたと言われている。
現代ではおもに以下の3種類の鳶職に分類される。ただし、会社・職人によっては複数の職をこなせる場合がある。平組は、この中で言う「足場鳶」が主たる業務である。
鳶(町場鳶)に対して野帳場鳶という(野丁場ともいう、造成地や埋立地など町の形成される前の場所や町という単位から外れる、または超える規模の仕事の場所、検地(野帳簿ない)の出来ていない土地を指す)。
足場鳶
建築現場で必要な足場を設置する職人。単に高所作業を行うだけでなく、設置場所の状態や作業性、足場解体時の効率など、その場に応じて的確に判断して組み立てることが求められる。会社組織として、建築現場の仮設足場のレンタル・据付・解体を一体となって請け負っている場合が多い。
鉄骨鳶
鉄骨構造の建築物において、鉄工所、FABなどで製作された柱や梁になる鋼材をクレーンなどで吊り上げて組み立てる(建て方・建て込みとも呼ばれる)鳶。
重量鳶
土木では橋梁の現場で主桁架設を行う。また、建物内部の重量物(大型機械など)の据付(設置)を行うのも重量鳶である。足場・鉄骨鳶に比べて専門性が高く、プラント・空調給排水設備・電気設備工事の一部を重量鳶が仕事する場合も多い。
送電鳶
正式名称は送電線架線工という。電気工事の知識を持ち、特別高圧架空送電線の敷設や保守作業などを行う。就業者は工業高校や高等専門学校の卒業生が中心だという。近年は担い手が少ないため、送電線架線工会社は人員の確保に困窮している。